明治維新人物ギャラリー資料展示「吉田稔麿 没後150年」の様子です。

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吉田稔麿を紹介した資料などをご紹介します。

期間:平成26年5月31日(土)~平成26年7月13日(日)

吉田稔麿 没後150年

吉田稔麿(よしだ としまろ)

天保12年(1841)~元治元年(1864)

<諱>秀実(しゅうじつ) <字>無逸(むいつ) <通称>栄太郎(えいたろう)

高杉晋作(たかすぎしんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、入江九一(いりえくいち)と並び「松陰門下四天王」と称される稔麿は、軽卒(足軽)の父清内(せいない)の長男として萩の松本村に生まれました。嘉永6年(1853)、13歳の時に家計を助けるため参勤交代に随行、そこで同年6月のペリー来航による黒船騒動を目の当たりにします。松陰門下となるのはその約3年後のことで、同い年の増野徳民(ましのとくみん)に誘われ、松下村塾に入塾します。翌年、公務のため江戸に赴いた後も松陰とは手紙のやり取りを通じて、最新の情報を知らせるなどの交流を続けますが、安政5年(1858)、松陰の野山獄への再投獄に抗議し謹慎処分を受けたことを機に、家族の干渉もあり塾から遠ざかることになります。

江戸に送られた松陰が亡くなったことを知った稔麿は100日の喪に服し、20歳となった万延元年(1860)に脱藩します。出自を隠し江戸で旗本妻木多宮(つまきたみや)に仕えた後、文久2年(1862)に京都で開かれた松陰慰霊祭に参列。翌年、攘夷決行の期限が決まると久坂玄瑞等と下関に向かい、光明寺党の結成、外国船砲撃などに関わり、士雇に列せられます。

しかし、元治元年(1864)6月5日の夜、京都の旅館池田屋で起こった新選組による尊攘派襲撃事件(池田屋事件)において24歳で命を落としました。その最期については自刃、斬殺など諸説があります。

参考文献

1『吉田栄太郎の幕末』一坂太郎著 春風文庫 2011

2『月刊・松下村塾 Vol.3 吉田松陰と吉田稔麿』月刊松下村塾編集部編 山口産業 2004

3『松陰先生と吉田稔麿』(増補版)来栖守衛著 マツノ書店 2010

4『池田屋事件の研究』中村武生著 講談社2011

展示資料

書名 著者名 出版者 出版年 請求記号
松陰先生と吉田稔麿 来栖守衛著 マツノ書店 2010.7 Y289/Y 86
吉田年麻呂史料 一坂太郎編 マツノ書店 2012.3 Y289/Y 86
吉田松陰と塾生たち 萩博物館編 松下村塾開塾150年記念誌出版委員会 2007.9 Y289/Y 86/N 7

関連資料

書名 著者名 出版者 出版年 請求記号
吉田栄太郎の幕末 一坂太郎著 春風文庫 2011.10 Y289/Y 86
吉田稔麿の生涯 一坂太郎著 萩ものがたり 2012.4 Y289/Y 86
月刊・松下村塾 V0l.3 吉田松陰と吉田稔麿 月刊 松下村塾編集部編 山口産業 2004.12 Y289/Y 86/N 4
新選組・池田屋事件顛末記 富成博著 新人物往来社 2001.07 Y215/N 1
池田屋事変始末記 富成博著 新人物往来社 2010.3 Y/To55
幕末の志士 第7巻 “新撰組躍動”池田屋事件 講談社編集 講談社 2010.6 210.58/N 9
池田屋事件の研究 中村武生著 講談社 2011.10 210.58/P 1

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