「井上勝と明治期の鉄道」
18世紀のヨーロッパで起こった産業革命は、さまざまな機械の発明と社会の工業化をもたらしました。なかでも、1825年にイギリスで開通した鉄道は、輸送量の飛躍的な増加に加えて産業として社会の注目を集め、欧米を中心に広まっていきました。
近代的な国家づくりを目指した明治政府は、いちはやく鉄道の建設に着手しましたが、現在につながる国内の主要な鉄道路線を作り上げた人物に、山口県出身の井上勝(いのうえ・まさる)がいます。
「鉄道の父」と称される井上勝と明治期の鉄道に関する資料を紹介します。
期間:平成24年8月14日(火曜日)~11月25日(日曜日)
井上勝(いのうえ まさる)
天保14年(1843)~明治43年(1910) 68歳
<p井上勝(いのうえ・まさる)は、萩藩士・井上勝行(かつゆき)の三男として天保14年(1843)萩に生まれました。6歳の時に野村家の養子となり野村弥吉(のむら・やきち)と称します。藩の役人だった父の勝行は、オランダ人から兵学を学ぶなど進歩的な人物でした。ペリー来航の後に長州藩に命じられた相州(そうしゅう)(神奈川県)の沿岸警備に就(つ)く父に同行した勝は、2歳年上の伊藤博文(いとうひろぶみ)と出会っています。勝は、16歳の時に藩の命令により長崎で兵学を学び、さらに江戸に出て砲術や英語などの勉強に励みました。< p="">文久3年(1863)には井上馨(いのうえ・かおる)、伊藤博文、山尾庸三(やまお・ようぞう)、遠藤勤助(えんどう・きんすけ)とともに横浜港から船に乗りロンドンに渡ります。当時は海外渡航が禁止されていたため5人は密航者として扱われましたが、西洋の技術を学ばせるために藩は渡航費を援助しています。渡航先のロンドンで、勝は鉄道や鉱山について学び、明治元年(1866)11月に帰国しました。
明治政府は新たな交通機関である鉄道の建設に取り組むため、海外から外国人を雇い入れ技術の援助を受けることにしました。明治3年(1809)、イギリスから招いたエドモンド・モレルを監督に新橋―横浜間の鉄道建設に着工しましたが、勝は工部省(こうぶしょう)に鉄道寮(てつどうりょう)が置かれると責任者として抜擢されます。明治5年(1872)日本最初の鉄道が開通、その2年後には大阪―神戸間が開通。さらに全国で鉄道の建設が開始され、明治20年代までには、全国の鉄道網が形づくられていきました。この間勝は、イギリス留学で得た技術と知識をもとに、日本における鉄道建設の大きな柱として鉄道事業に従事し、明治23年(1890)には初代鉄道庁長官に就任します。
明治42年(1909)に鉄道院顧問に就任した勝は、鉄道院総裁・後藤新平(ごとう・しんぺい)の依頼により、ヨーロッパの鉄道視察に赴(おもむ)きます。視察は各国の鉄道状況を自らの目で見て、さらなる日本の鉄道事業に役立てるためでしたが、わずらっていた腎臓病悪化のため明治43年(1910)68歳でロンドンの病院にて亡くなりました。
勝が生前よく口にしていた言葉として「吾が生涯は鉄道を以(も)って始まり、すでに鉄道を以(も)って老いたり、まさに鉄道を以(も)って死すべきのみ」という言葉があります。まさに鉄道に一生をささげた人生でした。
</p井上勝(いのうえ・まさる)は、萩藩士・井上勝行(かつゆき)の三男として天保14年(1843)萩に生まれました。6歳の時に野村家の養子となり野村弥吉(のむら・やきち)と称します。藩の役人だった父の勝行は、オランダ人から兵学を学ぶなど進歩的な人物でした。ペリー来航の後に長州藩に命じられた相州(そうしゅう)(神奈川県)の沿岸警備に就(つ)く父に同行した勝は、2歳年上の伊藤博文(いとうひろぶみ)と出会っています。勝は、16歳の時に藩の命令により長崎で兵学を学び、さらに江戸に出て砲術や英語などの勉強に励みました。<>
<p井上勝(いのうえ・まさる)は、萩藩士・井上勝行(かつゆき)の三男として天保14年(1843)萩に生まれました。6歳の時に野村家の養子となり野村弥吉(のむら・やきち)と称します。藩の役人だった父の勝行は、オランダ人から兵学を学ぶなど進歩的な人物でした。ペリー来航の後に長州藩に命じられた相州(そうしゅう)(神奈川県)の沿岸警備に就(つ)く父に同行した勝は、2歳年上の伊藤博文(いとうひろぶみ)と出会っています。勝は、16歳の時に藩の命令により長崎で兵学を学び、さらに江戸に出て砲術や英語などの勉強に励みました。< p="">
長州ファイブ
ロンドンに留学した5人は長州ファイブと称され、様々な分野で活躍しました。
井上勝(いのうえ・まさる)1843(天保14)年―1910(明治43)年
萩に生まれる。留学時は野村弥吉。ロンドンで鉱山、鉄道を学ぶ。岩手の小岩井農場設立に関わる。「鉄道の父」と称される。
井上馨(いのうえ・かおる)1835(天保6)年―1915(大正4)年
吉敷郡湯田村(現山口市)に生まれる。留学時は井上聞多。ロンドンで政治、法律、軍事を学ぶ。下関が外国船からの砲撃にあったことを知り伊藤博文と急遽帰国する。明治政府では初代外務大臣になる。「外交の父」と称される。
伊藤博文(いとう・ひろぶみ)1841(天保12)年―1909(明治42)年
熊毛郡束荷(つかり)村(現光市)に生まれる。留学時は伊藤俊輔。下関砲撃事件を知り井上馨とロンドンより帰国。明治政府では初代内閣総理大臣になる。「内閣の父」と称される。
遠藤謹助(えんどう・きんすけ)1836(天保7)年―1893(明治26)年
萩に生まれる。ロンドンで造幣技術を学ぶ。病のため井上勝と山尾庸三を残して帰国。明治政府では初代造幣局長となる。「造幣の父」と称される。
山尾庸三(やまお・ようぞう)1837(天保8)年―1917(大正6)年
吉敷郡二(ふた)島(じま)村(現山口市)に生まれる。イギリスのグラスゴーにて造船技術を学ぶ。第1次伊藤内閣で法制局長官となる。留学中に「手話」を知り、ろうあ教育にも尽力。「工学の父」と称される。
展示資料の紹介
- 『鉄道の父 井上勝』
- 三崎重雄著、三省堂、1942年10月発行、[当館請求記号:Y289 I57]
- 『子爵井上勝君小伝』
- 村井正利編輯、井上子爵銅像建設同志会、1915年2月発行、[当館請求記号:Y289 I57]
- 『井上勝と鉄道黎明期の人々』
- 鉄道博物館編集、2010年4月発行、[当館請求記号:Y289 I57]
- 『(復刻)明治36年 山陽鉄道本線(神戸~下関間)時刻表』
- あき書房、[当館請求記号:BH686.1 L1]
- 『(復刻)明治31年刊 鉄道線路及賃銭里程表』
- あき書房、[当館請求記号:BH686.2 L1]
</p井上勝(いのうえ・まさる)は、萩藩士・井上勝行(かつゆき)の三男として天保14年(1843)萩に生まれました。6歳の時に野村家の養子となり野村弥吉(のむら・やきち)と称します。藩の役人だった父の勝行は、オランダ人から兵学を学ぶなど進歩的な人物でした。ペリー来航の後に長州藩に命じられた相州(そうしゅう)(神奈川県)の沿岸警備に就(つ)く父に同行した勝は、2歳年上の伊藤博文(いとうひろぶみ)と出会っています。勝は、16歳の時に藩の命令により長崎で兵学を学び、さらに江戸に出て砲術や英語などの勉強に励みました。<>