井上馨と鹿鳴館を紹介した資料などをご紹介します。
期間:平成25年11月30日(土)~平成26年2月16日(日)
井上馨と鹿鳴館
明治政府の欧化政策のひとつに鹿鳴館(ろくめいかん)の建設があげられます。鹿鳴館は、外務卿に就任した井上馨(いのうえ・かおる)の発案で、イギリス人建築家コンドルの設計により明治14年(1881)に着工、明治16年(1883)7月に完成しました。政府要人や外国公使らのための社交場として、また迎賓館として客室、舞踏室、食堂、ビリヤード室などを備えた2階建てのこの洋館は、外務省が各省から集めた公費約14万円を投じて建設されたものです。
「鹿鳴」の名称は、中国『詩経』の詩から「賓客を迎えて鹿が鳴く」に由来してつけられたもので、迎賓接待の意味が込められています。明治16年(1883)11月28日、井上馨の誕生日に、およそ1200名が招かれ華やかな落成の会が開かれました。
井上馨[天保6年(1835)~大正4年(1915)]は、幕末に伊藤博文(いとう・ひろぶみ)らと共にイギリスへの密航留学をした萩藩士、長州ファイブのひとりです。明治になり新政府の要人として外務卿(外務大臣)などを歴任し、政財界に大きな影響力を持ちました。外務卿として、井上馨は幕府が結んだ外国との不平等条約の改正に取り組みました。鹿鳴館建設に象徴される政府の欧化政策は、井上馨の目指した「諸外国と同じ文明国である日本」を認めさせるための一つの手段であり、条約改正交渉をすこしでも有利に展開するための井上の案だったと考えられています。
鹿鳴館では舞踏会のほか、女性たちによる慈善バザーも行われました。しかし、夜会などによる風俗の乱れや、欧米化に批判的な人々の反発などを受け、条約改正の失敗と井上馨の政治的失脚とともに、鹿鳴館は明治23年(1890)に閉鎖されました。その後、建物は華族会館として使用された後、昭和15年(1940)に取り壊されました。
展示資料
書名 | 著者名 | 出版者 | 出版年 | 請求記号 |
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日本外交史人物叢書 第26巻 | 吉村/道男‖監修 | ゆまに書房 | 2002.12 | R319.1/N 2 |
ジョサイア・コンドル | 鈴木/博之‖監修 | 建築画報社 | 2009.12 | 523.06/N 9 |
図説明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京 | 原田/勝正‖監修 | 学研 | 2007.10 | R210.6/N 7 |
世外井上公伝 第3巻 | 井上馨侯伝記編纂会‖編 | マツノ書店 | 2013.7 | Y289/I 57 |
画報近代百年史 第1〜6集 | 国際文化情報社 | 1952.08 | Q216/I 1 |
関連資料
書名 | 著者名 | 出版者 | 出版年 | 請求記号 |
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NHK 歴史への招待 8 | 日本放送出版協会 | 1994.05 | 210.08/M 4 | |
ビジュアル明治クロニクル | 世界文化社 | 2012.12 | 210.6/P 2 | |
明治かがやく | 平凡社 | 2005.3 | R210.6/N 5 | |
史話日本の歴史 27 鹿鳴館の華と狂騒 文明開化と自由民権 | 清原/康正‖編集 | 作品社 | 1991 | 211/M 1 |
鹿鳴館 やってきた異人たち | パット・バー‖著 | 早川書房 | 1970 | 216/K 0 |
鹿鳴館 | 飛鳥井 雅道‖著 | 岩波書店 | 1992.07 | 216.1/M 2 |
鹿鳴館 擬西洋化の世界 | 富田 仁‖著 | 白水社 | 1984.12 | 216.3/L 4 |
鹿鳴館貴婦人考 | 近藤 富枝‖著 | 講談社 | 1980.10 | 281.09/L 0 |
鹿鳴館の貴婦人大山捨松 | 久野/明子‖著 | 中央公論社 | 1988.11 | 289.1/O 95 |
昭和天皇最後の御学友 | 久野/明子‖著 | 中央公論新社 | 2000.2 | 289.1/W 46 |
明治外交官物語 鹿鳴館の時代 | 犬塚/孝明‖著 | 吉川弘文館 | 2009.10 | 319.1/N 9 |
おんなの服飾史 | 読売新聞大阪本社婦人部‖編 | 読売新聞社 | 1975 | 383.1/K 4 |
古写真で見る幕末・明治の美人図鑑 | 小沢/健志‖編著 | 世界文化社 | 2001.10 | 384.6/N 1 |
ジョサイア・コンドルの綱町三井倶楽部 | 石田/繁之介‖著 | 南風舎 | 2012.8 | 523.1361/P 2 |