国司信濃(改訂版)(明治維新人物調べ方案内 No.7)

作成日:2015年2月28日、改訂日:2022年12月27日

国司信濃について調べる資料をご紹介します。資料は山口県資料コーナーや明治維新人物ギャラリーの他、書庫内にあります。

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人物紹介

国司信濃 (くにし しなの)
天保13年(1842)~元治元年(1864)
いみなともすけちかすけ,幼名:熊之助,通称:徳蔵・うし之助・信濃しなの

萩藩の家老。天保13年(1842)に寄組である高洲元忠の次男として生まれ、6歳で国司家の養子となり、弘化4年(1847)に二十代みちのりの家督を継ぎ二十一代となる。

文久元年(1861)に大組頭となる。文久3年(1863)2月の長井雅楽うたの切腹の際には検視役を務める。同年6月、老中に任ぜられ下関(赤間関)防備総奉行、7月に加判役となる。同年の8月18日の政変により藩が失った政治勢力の回復のため、翌元治元年(1864)7月、禁門の変(蛤御門はまぐりごもんの変)で藩兵を率いるも敗退する。幕府への謝罪のため、三家老(益田右衛門之介〔調べ方案内No.1〕福原ふくばら越後えちご〔調べ方案内No.6〕)の一人として徳山の澄泉寺にて同年11月11日に切腹を命じられる。23歳没。

和歌に長けており、容姿端正、情に厚かったという。万倉まぐら護国神社敷地内には国司信濃の銅像と遺詠の歌碑が建立されている。

資料紹介

[ ]内は県立図書館の請求記号です。

伝記

『国司信濃親相伝』(堀山久夫,マツノ書店,1995 [Y289/KU45]
昭和39年(1964)に国司信濃殉難百周年に刊行されたものの復刻版。系図、系譜、年譜、写真あり。国司信濃の遺文は「秘密」「刻心録」「建白書」「花玉あて書簡」「高田のおしね※」を収録。復刻版は「復刻版『国司信濃親相』補遺」として史料の追加あり。
※「高田のおしね」…国司信濃歌集。近藤芳樹撰集。p286-297。別に和装本『抄宗寮叢書 巻二』にも収集あり。p29-59

人物略伝

『野史台維新史料叢書13 傳記4』(日本史籍協会編,1974 [R210.58/K 2])
「長州三太夫伝」に国司信濃についての記載あり。p14-16
『楠町の歴史』(原田卓雄著,楠町役場,1980 [Y261.1/L 0]
宇部市楠木町には国司氏の給領地(万倉)があった。p162-166「寄組国司氏と万倉」

雑誌記事

「くすのき文化」(楠木町文化協会,[Y261.1/J 9])

「厚狭毛利国司清水三家の家と人との関係(一)」(堀山久夫著,1969年1月創刊号,p3-5)
「厚狭毛利国司清水三家の家と人との関係(二)」(堀山久夫著,1969年6月第2号,p5-9)
藩政末期にて、宇部市船木が知行地である厚狭毛利の毛利能登元美とその妻及び弟、万倉が給領である国司信濃、吉部伊佐地が給領である清水清太郎の関係についての記事。
「国司信濃と妻弥佐子について」(堀山久夫著,1971年11月第七号,p5-9)
国司信濃の遺書の宛名「花玉」について、著者の著作である『国司信濃親相伝』(初版1964年)では侍女宛としているが、この記事では妻の弥佐子宛であるとしている。
「『国司家墓所及び墓碑』調査について」(山田信義著,2002年3月第53号,p1-8)
曹洞宗蓬莱山天竜寺にある国司家墓所及び墓碑の記事。墓所の図、写真あり。

「宇部地方史研究」(宇部地方史研究会,[Y262/K 2])

「国司信濃公の馬関戦争」(武波博行著,2011年7月第39号,p24-41)
文久3年(1963)の馬関戦争での奇兵隊、撰鋒隊の動きと国司信濃についての記事。参考文献あり。
「国司信濃親相公の短い生涯」(武波博行著,2021年7月第49号,p35-41)
国司信濃の略伝。参考文献あり。

「みねぶんか」(美祢市郷土文化研究会,[Y265/J 7])

「国司家の幕末と維新-攘夷戦から脱隊騒動まで-」(土屋貞夫著,2008年9月第39号,p33-48)
幕末での国司家の動向、知行地、知行高、在郷家臣等の記述あり。参考文献あり。

「蒙談」(蒙談会,[Y910/L 5])

「維新の先覚者 國司信濃親相」(田村幸志郎著,1999年7月第28号,p19-24)
国司信濃の略伝。国司信濃親相肖像、参考文献あり。

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